いつかの夢
雨が降っている。
広くて暗い体育館の屋根に、雨が当たる音がする。雨はずっと降っていて、体育館の中はかなり湿度が高い。
「君は、もう少し自分に優しくなっていいんだよ」
目の前の男が私に向かって静かに言う。
ここはどこだろう。わからない。ステージの前にはたくさんのパイプ椅子が並んでいて、換気用の窓から僅かな光が差し込んでいる。
周りには他に誰もいなくて、この世界には私とこの男しかいないんじゃないかと錯覚する。
この男は誰だろう。名前はわからない。でも、銀縁の眼鏡の奥で哀しそうに笑うその目は、私の知っている目だった。
不意に、あついものが頰をつたう。
私の目から流れるそれを見た男は、その目にさらに深い哀しみを馴染ませる。
「幸せになってくださいね」
口に出した途端、胸があつくなる。鼻がつんと痛くなる。視界がぼやけて、溢れたものが口に入って、しょっぱい味がする。
ああ、アイシャドウが落ちちゃう。汚れた自分の顔を見られたくなくて、下を向いた途端、抱き寄せられた。
知らないけど、知ってる。匂い、ごつごつした手、細い見た目とは裏腹にかたくて厚い胸板の感じ。
「先生…先生のバカ!バカバカバカ!…」
気づけばそう口走っていた。彼の鼓動を感じながら、彼の腕の中で、私は泣き喚いてる。そうだ、この人は先生。どうして私を置いていくの、私には先生しかいないのに。
優しかった彼の腕に力が入る。
「僕のこと許さなくていいから。君の方こそ幸せになるべき人なんだよ。僕のことなんか早く忘れて、幸せになるんだよ。」
そんなことできるわけない。どうして忘れなきゃいけないの?どうして私は生徒で、この人は先生なんだろう。わからない。わからない、ねえ、どうして、教えてよ先生。
外の雨が一層激しさを増して、体育館の屋根に勢いよく雨粒がぶつかる。
彼の体温が、あたたかくて、愛おしくて、涙はとまらない。何か言いたいのに、何も言えない。
先生は私の一番なのに、私は先生の1番じゃない。先生は私の全てなのに、私は先生の全てじゃない。彼の腕の中にはいつも、私じゃない人がいる。今までも、これからも、ずっと。
彼が私の頰に触れて、涙を拭ってくれる。彼の手が触れるあたりに、かたく冷たいものを感じた。やだなあ、最後に会うときくらい外してよ、結婚指輪なんて。こういう気の利かないところも好きだけど。
そんなことを思いながら精一杯の笑顔を向けた。
私の好きな薄い唇の端があがって、背中と顔を強く引き寄せられて、先生と、最初で最後のキスをした。
今までの慎ましく幸せな日々が脳裏に浮かぶ。
極限まで傷ついた私を、優しく抱きしめてくれた先生。ありのままの私を受け入れてくれた先生。大好き。
唇が離れる瞬間、普段は眼鏡の陰に隠れている先生の目がはっきり見えた。まつ毛長いなぁ。
「私、十分幸せでしたよ。」
そう言って、彼を軽く突き飛ばす。離れた細い腕を見て、ああ、もう二度とこの腕に抱かれることは無いんだと気づいた。
「今までありがとう」
彼の目は最後まで優しかった。
「さようなら、先生」
今度はそらさずに、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
よし。
愛しい彼に背を向けて、体育館の出口へと走る。もう振り返らない。湿気で滑りそうだったけど、全力で走る。体育館を出て、土砂降りの雨に打たれながら更に走る。顔を濡らしているのは自分の涙なのか雨なのかもうわからない。
綺麗な茶髪のロングヘアで、童顔の私とは比べ物にならないくらい美人で、スタイルが良くて、柔らかい雰囲気のあの女の人の笑顔がはっきりと浮かぶ。例えば私があの人を殺しても、私と先生が結ばれることはないだろう。
気づけば辺りには体育館も校舎も住宅も見えない。雨も降っていない。真っ白な空間をひたすら走っていた。
あれ、どうして私、走ってるんだっけ。何かが鳴っている。うるさい。その音が私の全てをかき消していく。
目覚める。布団の中。私の手は無意識に目覚まし時計を止めていた。
外は雨が降っている。